2026_09_21
トマトエージェンシーを辞めたときにも思っていたのだが、中村悠一郎の方向性としては、中村が別名義を使って、一人でやっている、ということを押し出していった方がコンセプト的には面白いのかなと。今まで他のアーティストは、作者性の問題をやるときに、リレーショナルアートやソーシャリーエンゲージドアートなど、他者を巻き込むというのは、よくやられてきたような気がするわけで。
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昨日は、福岡壱海の《千年ワークショップ Ⅱ》や《Fukuoka Ichika Commons Ⅱ》という、他者を必要とするような形式でも、他者を巻き込まないで、中村悠一郎一人でやる、というプロジェクトを考えたのだが、老松孝志の《カレーライスギャラリー Ⅱ》というものをつくって、今までは他者も巻き込んでいたけれど、次は巻き込まないという方法をやる、というのもいいかもしれないな。
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今まで平岡さんがレビューを担当していたけれど、自分一人でも書けるようにはなりたいな、とも思っている。エッセイ的な引用のないレビューならいくらでも書けるような気がするのだが、引用とかちゃんとして、論考のようなレビューは自分に書けるのかどうかわからない。言語化はできる、という感じ。
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あるいは、作品として、その論考に出てくる批評家自身も自分の別名義として、書いた文章から引用してくるとか、の方が中村っぽさはあるかもしれないが。
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一歩ずつ階段を登っていくように、まずは一本論考を書いてみる、そして次に書く論考では、その論考から引用してみる。そしてその次の論考では、前に書いた2本から引用してみる。例えばこのような感じで、DIY論考のような、全て自分一人で成立させるような論考の書き方を時間をかけてやっていく。たくさん書けば書くほど、引用元が増えて豊かになっていく、とか。
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この日記のような断片的でいいから、自分が書いたというテキストを増やしていく、とか。千葉雅也の『ツイッター哲学 別のしかたで』、あるいは、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』シリーズなど、断片的な哲学というのはたくさんではないけれど、存在はする。そういうのを参考にはできないだろうか。
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たくさんの部屋のようなイメージで一つのサイトの中にたくさんのレビューメディアがあるサイトというのを自分でつくり、そこに自分で寄稿する。そして例えば、別の部屋のメディアのレビューから、別の部屋のレビューへの引用などを行う。このようにして、一つのメディア生態系のようなサイトというのがつくれないだろうか。
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とりあえず、サイトのタイトルだけ考えた。僕が今住んでいる福島県須賀川市から須賀川を英訳してもらった。Sukagawaではなく、漢字から意味を抽出して。いくつか候補はあったけれど、《The River That Must Celebrate》がいいかもしれないなと今はちょっと思っている。
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こういうことをすれば、《Cream Soda Museum》内で、一個階層を下げれるので、アーティストとして登録する必要性がない名義も、活動をすることができるなと。そのうち、いろんなアートワーカーが出てくるかもしれない。
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今のところ、まだ実際に世には出ていないけれど、福岡壱海の《Fukuoka Ichika Commons Ⅱ》やイライアス・ロークの《スターダスト》などいくつかメディアになりそうなアイデアというのはあるが、次にサイトをつくるとしたら、出てくる部屋は、全部新しいメディアにしようと思う。
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あるいは、全然関係ないタイトルもいいなと思い始めた。ペリカン・アーカイブとかトマトエージェンシーのような。《ドルフィン》とか。あるいは、《ハイパードルフィン》とか。もしくは、食べ物系で考えるなら、《フューチャーココナッツ》とか、英語で《Future Coconut》とか。《Future Mayonnaise》もいいなあ。
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例えば、レビューや論考、批評を書くとして、どのような題材があるだろうか。「インターネットアートとしての《Cream Soda Museum》」とか、「自己批評を批評する」とか、「シャインマスカット一粒でも賞は成立するのだろうか」とか、「缶詰デモクラティックバンクにとっての負債とは」など色々考えられるといえば考えられる。
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とりあえず、メディアのサイト(そしてそのプロジェクト全体の名前)は《Future Mayonnaise》にしようと思う。日本語のメディアだから、日本語の方がいいかな。《フューチャーマヨネーズ》とか。いいかもしれない。
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去年、《千年ワークショップ》で、アーティストの宮崎竜成さんにゲストとして参加してもらったときに、宮崎さんは自身のやっていることの解説として、既存の哲学者とかの固有名詞を使わないで説明するという縛りを設けていた。それはすごくいいなと思った。確かに、既存の固有名詞を使った方が、権威化とかするには便利ではあるけれども、それだけじゃないよなと。つまり、《フューチャーマヨネーズ》の批評にもそういうことができるんじゃないか。
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まずは、作品についての観察を、作者としての自分自身の思考の思い出から考えるのではなく、その作品自体から書き起こせることを書く、というところから批評を始めるのがいいかもしれない。確か、こういった作品自体から読み解く的なことは、アーティストで美術批評家の岡崎乾ニ郎さんがポストストゥディウムで言っていたような気がするな。多分だけど、ロラン・バルトの「作者の死」という、作品は作者の声を代弁するものではなく、文化的に織られたもの、というのに影響を受けている気がする。
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そのような断片的なメモというのを大量につくりたい。それを、クロード・レヴィ=ストロースのブリコラージュのような書き方で(レヴィ=ストロース自身もそのようなやり方で本を書いていた)、批評文を書いてみたい。
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去年、《カレーライスギャラリー》の展示でも使ったデルピスやナジームの炎、へへ・へペル・へへなどの「ミソロジカルアーティスト」を視覚化もしたいとは思っている。けれど、それがイラストレーション的な説明のためのものになるのは避けたいと思う。どうすればいいか。
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《Cream Soda Museum》のページ2、3あたりのポストアーティストやミソロジカルアーティストの作品画像がなくて、プロフィールを読むだけになっているから、そこで鑑賞者は躓く人も出てくるとは思う。そこらへんをもうちょっと可視化できたらいいのになと思っている。
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SNSをやめると、SNSに今まで使っていた脳のメモリを制作にもってくることができる。結構僕はSNSに脳のメモリをもっていかれていたので、これはでかい。
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《フューチャーマヨネーズ》は、長澤真莉と今福花梨の二人によって設立、運営がされているという設定はどうだろう。どちらも新しい別名義。
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「この世界は本当の神が直接つくった完全な世界ではなく、人間の内部にはこの世界を超えた〈神的なもの〉が眠っており、それを“知ること”によって救済される」というグノーシス主義もちょっと興味ある。「普通の創造論では、神 → 世界という作者と作品の関係があります。ところがグノーシス主義では、最高神 → 神的領域 → デミウルゴス → 世界となって、作者が多重化する。」というように、作者論として面白い。
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岩波文庫の『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』を買っておこうかな。
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《フューチャーマヨネーズ》のドメインは「.jp」にするか。
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とりあえず、《フューチャーマヨネーズ》は置いておいて、VOCA用の新しい名義をもっと考えないといけない。最近の傾向だと、名義同士が関係を持つようなプロジェクトをやっている名義ということなんだが、どんなのが他に考えられるか。
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批評文とかを自分で書きたくなったのは、確実にこの日記という習慣のせいだなと思う。前まで、こんなに「言語化」に興味はなかった。良くも悪くも。
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やはり、日記よりも手書きのアイデアメモの方が、色々アイデアは出てくるな。日記だとどうしても、人に伝わるように書くという条件反射のようなものがあったりするからかもしれない。
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最近というか、昔からだと思うけれど、人を巻き込むかたちの作品とか、プロジェクトのようなものをつくって、いかにそういったスケール感とかで強度を出す、ということが良しとされ過ぎているような気がする。
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僕には、そういうことができないから、というのもあって、自分を擁護するためということもあるけれど、僕みたいにある種の自閉性を持った表現というのが、もっと評価されてもいいとは思う。というか、そういう風潮があってもいいのになと思う。
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川童タカヒコで行われている中村悠一郎の《0 km Residency》も終盤に差しかかっている。9月は30日までなので、あと9日。成果発表とかはとりあえずないけれど、この試みは何か意味があったのだろうか。
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3636文字。結構今日も日記を書いた。作品の制作は全然していないけれども。でもこういう思考を試している日にちというのもすごく大事だと思う。
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それぞれ違うプロフィールの別名義としての中村悠一郎というのをいくつかつくるとかってのもいいかもしれないな。一見説明しないと、どの中村悠一郎が何をやっているのか、というのをわからなくする。
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一人の人間が300とか数多くの別名義を生み出し、制作していた、という個人神話的な回収にどうやったら、抵抗することができるか?一つに別名義を中村悠一郎に接近させること。そういった操作によって、中村悠一郎本人はどういった存在か、ということを謎にさせる。もう一つは、名義同士を関係させて、複雑性を強化させる。他にも色々方法はあるだろうがとりあえず二点。うーんどうだろう。
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毎日、新しいことを考えているから、かろうじて続いているプロジェクトは多いけれど、モチベーションの継続性というのが問われると、難しい。例えば、先日までは、クレマン・ベンヴェニストの《ペルプンパの森》について、モチベーションがあったけれど、今はあんまりない。