Home About Diaries Contact

2026_08_30

まだ8月だっていうのに、もうかなり涼しい。長袖長ズボンでも肌寒いぐらいだ。

ー

「私が諸島である カリブ海思想入門」中村達が欲しい。アマゾンで買おうかな。何人か知り合いが読んでいたので、知ったカリブ海の思想について書かれた本。

ー

人に伝わるかたちとして残すということの重要性。例え、いい作品がたくさんあったとしても、それにアクセスする方法とかがないと、あんまり意味がないという問題。僕は、ウェブサイトを自分でやる気がある限り運営して、アクセスに開かれたものとしてやっていきたい。

ー

制作している人の頭の中は、基本的にアナクロニズムに近いと思う。アナクロニズム(anachronism)とは、時代や年代が合っていないこと、または本来その時代には存在しないものが登場すること。

ー

一人で数十年間制作するとしたら、どこまで大きな世界をつくれるだろうか。数百人の作者が数千人になり、作品が数万点になったとき、現在とはまったく違う見え方になる気がする。

ー

今もアカウントはそのままだけど、稼働していないブルースカイのポストを見返してみようと思う。どんなことを書いていたか。

ー

Xなど文字系のSNSでは、どうしても自分のことばかりつぶやく人はうざくなってミュートしてしまう。実際、僕自身もそうなりがちだった。しかし、日記という形式だと、いちいち比較されることがないから、思う存分自分のことについて書けると思う。

ー

いくつかブルースカイでつぶやいたことをこっちの日記に転載してみることにする。

ー

デザイナーにはなれない、アーティストになるんだ!って決めたときに、デザイン関連の本はほとんど売ってしまったのだよ。ほんともったいないことをした。今では、アート的思考でデザイン的な感覚でも表現してるから、わりと必要性あったりする。

ー

岡崎さんとかは、スピリチュアリティに理解があるようで、実は憧れている人なんだと思う。本人は宇宙の真理にまでは到達していない。だからこそ、インプットによって、隅々まで精密に世界を理解しようとしているし、それは全くもってすごいことだと思う。美術史的に重要な仕事をしているし、現代、あるいは後世のアーティストにとってめちゃくちゃ「使える」存在になっている。しかしながら、僕から見て最後の一歩踏み止まっているように見えるところは、そこらへんの認識の違いなのかなと思う(謎の上から目線)。

ー

ヒルマ・アフ・クリント僕も好きだけど、世の中の理解の仕方が個人的に間違っているような気がする。僕も統合失調が発症したときに、超越的な神秘体験というしかないような体験をしたのだけど、そのときに、一度でこの世の真理というか全宇宙の構造みたいなものを理解した気になった。つまり、悟ってしまったので、それ以来むしろこの宇宙を理解したいという気持ちは全く起こらず、逆に自分が理解した壮大なことを人類の文明の発展の歴史の中にある人に伝わるような言語として(それは造形的でもある)の様々なマイルストーンを参考にどう再編成していくか、ということにしか興味がな区なった。おそらくだけど、ヒルマもそういう意識だったのだと思う。つまり、ヒルマは全宇宙を理解するために描いているというプロセスが重要なのではなく、もう理解していることをどう表すか、という表現の方の探究であって、宇宙自体の探究は、啓示で既にに達成できるということ。スピリチュアルに憧れている人は、描いていくプロセスによって、探究が深まるというふうに思うかもしれないけど、実は逆なのでは。インプットではなくアウトプット。どう人類に伝えるか。そこに重要性がある。本当の意味でスピってる人にしかわからないとは思うのだけど。

ー

自己批判をすると、デュシャンから続く、アートでなかったものをアートにする、という考え方自体がある種のアートを拡張するという、植民地主義的権力構造としても捉えられる。そのことによって、アートの権力構造自体を批判的に捉えること自体が、制度に回収されるどころか、より権力を強化するとともに、進歩史観、西洋中心主義的な権力構造を強化させてしまう。

ー

美術大学の中で作品を提出するとしたときの教授との議論というのは、極端な話、美術大学において、作品として提出が完了すれば、それは美術作品であるという、制度上の承認を得れるわけで、教授との全ての議論というのは、作品の強度の問題によって、承認するかしないかという問題に帰結する。この強度というのは、結局な話、時代的なものだったり、教授の認識の話だったり、個人的なものや一時的なもので、そもそもアートワールドが普遍的なものではないのと同様、普遍的なものではない。美術大学では、そもそも作品の強度の議論しか基本的にできないのではないか?本当は社会的な、美術ではないものと美術との違いはなんなのかとか、そういう制度的な話もするべきだったように僕は今になってから思うようになった。大学を出ると、社会に出ると言われるように、アーティストであるということを承認させるための装置が一つ外れることによって、美術であることを承認させる別の論理や説得力が必要になってくる(僕の言っていることは狭義でのアートワールドかもしれないが)。そこをもうちょっと学びたかった。

ー

それと、僕の作品群は、ポストメディウム的な視点は多いにあると自分では思っているが、ポストコロニアル的な視点というのが、すっぽり抜けている。それは、いろんな理由が考えられるけど、僕自身が地域の歴史とかを語ると震災の問題に結びついてしまうから、というのが一つあるかもしれない。原発の問題も。白河や須賀川は、福島の中でも、震災は影響受けたけど、津波や原発からは離れていて、そこの問題とはちょっとだけ距離感がある。そこをシビアに考えていくと、当事者性を語るのには、難しいと思ってしまう。そこら辺の複雑さを理解してくれる人はまだまだ少ない。

ー

名付けることは、そもそも未分化なものを分化させることで、ある種の暴力性を持っている。わりとそのことに関して何も考えてこなかった。無意識のうちに、自分の中の他者性や外部性にだけ絞っていたのはそのことが関係するかも。

ー

芸術における希少価値は過度に神話化されすぎているように思う。いいもの=少ないというのは、あくまで人類の、特に資本主義的な価値観や文化資本的な価値観の中だけでの話であり、「自然」「現象」「宇宙」という世界線においては、そもそも話が違う。僕みたいに名義が複数ある前提で、考えていくと、価値観が一人の身体の中に分裂していてもいいから、いいものが世の中にはまだまだたくさんあると思えるし、世界に可能性はまだまだ満ち足りている。

ー

平野啓一郎は、人は人とのコミュニケーションが成功することに喜びを感じると「私とは何か」で書いているし、斎藤環も「イルカと否定神学」で、オープンダイアローグのように対話によって回復がやってくると言っているわけで、やはりコミュニケーションの成功が足りないのはメンタル的に不健全だと思う。

ー

作家(身体)=作家名(名義)=作家性(一貫性)という図式が基本的には美術の制度としてあって、そこに対して、自分のやりたいこととしての名義・作家性の複数性を並列させているという図式をぶつけてみること。ぶつけると言っても、制度批判というよりも、制度への提出という制度に対応する語りかたの構文の問題であって、決して破壊することが目的なのではない。これって僕にはすごく重要なことに思える。

ー

アイデアがたくさん湧き、作品をたくさんつくることが楽しいという私的な観点からの自分のやりたいことというのだけでは、現代美術として成り立たせることは結構難しくて(大竹伸朗みたいに成り立たせているアーティストももちろんいるが)、社会的、美術史的観点からの「作者」や「名義」の問題というのに対する批評である、と言い切る強さみたいなのがプレゼンテーションになくてはいけない。けれど、田舎にいると後者の批評性みたいなものへの緊張感のようなものはなくなるし、とにかく余った時間を制作に費やすことで、自分のメンタルを健康に(不健康だけど)保ちたいという気持ちもある。

ー

子供の頃は、基本的に労働という概念がないから、遊びという共同性が最も至上なものだった。そこでは、非資本主義的に協働することが当たり前とされ、できるもののクオリティや価値は低いかもしれないが、確かに何かをお互いの信頼関係だけで協力して作り上げていた。

ー

良いか悪いかは別として、これからの時代言い切ちゃう強さみたいなものは、どういったシチュエーションでも求められてしまうような。そのことを迂回するというのも一つの手だけど、真正面から向き合うこちら側のスタンスを見せなければいけないときもたまにある。真正面から向き合うことによって、逆に傷つかないで受け身をとれるときもある。

ー

ポストモダン的な脱中心化のトラップは、どこまででも脱中心化できてしまう、ということ。どこかで逆に中心に向かっていくような整理能力が必要かもしれない。

ー

人と話していて物々交換という言葉が出たのだけど(その人は素朴に昔行われていたかのような文脈で使った)、最近のデヴィッド・グレーバーとかの理論とかだと、一般的なレベルでかつて個人同士で物々交換が行われていたという証拠というのはないらしく、共同体同士の激しい儀式のような形でしか行われていなかったという。よくよく考えると、物々交換の前提になっているのは等価交換であり、相場のようなものなのかもしれないなとも思う。それは資本主義的で、これはこのぐらいの値段の価値だからこのぐらいの値段の価値のものだったら、貨幣を介さなくてもお互い合意があれば交換できる、というような。そう考えると、物々交換というのは、プレ資本主義的な交換手段ではなく、現在の資本主義社会の一般的な常識を基準に考えられていて、それを未来的な形で実現させようとしている、ポスト資本主義的な交換方法なのかな、とかちょっと思った。マルクスが共産主義は資本主義が成熟した後にやってくるといっていたこととか柄谷行人の交換様式Dのこととかを考えるヒントに少しなりそうだなと、個人的に思った。

ー

僕は決してビジネスに関して意識高いわけではないのだけど、分散型ビジネスの歴史について調べてみると、僕自身の複数の別名義で作品とコンセプトを分散させるという関心と似通っている部分があるというか。結構面白いし、ちょっと参考にしようと思う。

ー

2020年の鬱のときは、本当にもう作品は二度とつくれないのではないかというぐらい落ち込んでしまったけど、最近は鬱だろうが、統合失調だろうが、ある程度制作もできるし、活動もできるという謎の自信はできてきた。それは、別名義でバリエーションが豊富にあるから、一つ行き詰まっても別のオルタナティブが自分の中にあるから、というのも大きいと思う。

ー

本を買ったりしてリサーチするとしたら別ではあるけれども、基本的に自分の作品についての分析とか考察に関しては、お金がほとんどかからない。これは地味だけど、すごく画期的なことではあるなと思う。

ー

僕は普段、常にちょっと躁っぽいところがあって、思いついたことを形にどんどんしてしまうところがあるから、自分の中での言語化が少し追いついていないと思われているところがあったりする。実際、追いついていないところもかなりあると思う。でも、本来やりたいことというのは研究性のあるアートなのではないかと思うから、もっと、いつか将来のために、今考えていることを言語化しておいて残しておくことも大事なのではないかと思う。それにしては、ちょっと今名義が多すぎるから、まずは一つ一つに向き合う時間的な余裕をつくるところから始めよう...。

ー

過去の作品に今自分たちは影響を受けているということは、すなわち過去の時点で過去から見た未来である現在に影響を与えることがなんらかの形でわかっていて、同時に、現在作品をつくることは、未来の誰かに影響を与えることができることでもあり、そのことを意図しているのであれば、結果として、過去→現在→未来というクロノス時間はいわゆる制作という行為においては存在しないと考えることも可能ということをなんとなく思いついた。

ー

スモールワールドネットワーク理論というのに基けば、昔は6次の隔たりといって、6人知り合いの知り合いという風に辿れば全世界の人が繋がってるという理論だったらしいけど、今はSNS全盛時代で3人〜4人ぐらいらしい。知り合いの知り合いの知り合いは、トランプ支持者だったり、シオニストだったり、ネオナチだったりするという、この現実をどう捉えればいいのだろうか。

ー

中井久夫「分裂病と人類」読み始めた。すごい本だ。うつ気質の後の祭り的執着気質に対し、統合失調症は兆候親和的先取り気質があるという。後者は世直し路線の未来志向型で、狩猟採集社会ではリーダーシップを発揮していた可能性も大きいという。逆に、農耕社会が始まり今に至るまで、現在の世の中は、執着気質の立て直し型が社会適合性が高く、うつ気質の人がとても多いが、先見性には弱い。確かに、地球の未来を考えて行動するような、大局的な視点が世の中に欠けているのは間違いないと思う。そして中井は、統合失調症はそういった人類が大局を見るために払うための微々たる税のようだともいう。

ー

News PicksみたいなメディアがよくFacebookの広告に出るようになったけど、世界自体が多様性と言いながらも、それが暗黙に目指しているところは、アメリカ的な文化多元主義であって、そこには障害者やジェンダーマイノリティ、先住民族などの無意識のうちに周縁に立たされている人たちの文化はまだまだ容認しないという空気のようなものが支配的(特に日本は)、カナダやオーストラリアのような多文化主義的空気感はない...。

ー

発信に重きを置かない生活をすることによって、自分のメンタルを安定させたい。今の時代は、SNSで誰でも発信に重きを置くような価値観で支配されているから、もっと長いスパンでアーカイブとして残るような日々の制作なりアイデアメモや日記などを書いたり制作していきたい。

ー

オルタナティブはどうしても、美術館などに比べて発信力が弱いから、SNSで発信するしかなくなる。それと、現在ということに価値の重点が置かれてしまう。例えば、今しかやっていない展示、とか。でも、オルタナティブであることとそういった今であることというのは、本来、切り離すこともできることであるとは思う。

ー

ChatGPTとの今までの会話も何日に分けて、見直してみようと思う。実際のところ自分にかなり影響を与えていると思うので。

ー

僕は、色んなことに手を出しているので、一つのことを継続するモチベーションの管理が少し難しい。どうすればいいのか。でも、アイデアメモとか、Cream Soda Museumとかそういうプラットフォーム的で、大きな器というか色んな情報を入れられるものについては、今のところ継続できている。

ー

スキャナーが壊れているので、セブンイレブンに行って、アイデアメモをスキャンしようと思う。スキャナーはまだ買って1ヶ月も経っていないのに壊れた。というか、壊れたと思う。物質的な紙がデータになるのは少し気持ちがいいというか。逆も然りで、データ的なものが印刷され、物質化するのも気持ちいい。

ー

須賀川には特に期待をしているわけではないというか。というか地域に期待をしているわけではない。やっぱり、自分は美術に興味があるので、日常に興味があるわけではない。須賀川に限っていえば、美術が日常化しすぎているし、身近で商業的なアートこそがアートとして消費されている。僕のやっていることは、もっと美術史の問題であって、そういう身近とか商業とかいうかたちで消費されたくはない。

ー

ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」について。進歩への批判として、進歩には、戦争、植民地主義、搾取、敗者、忘却、破壊などが必ず伴う。敗者から見れば、勝者にとっての発展は「破局の連続」でしかない。同じ過去でも、ベンヤミンにとっては、もしかしたらこうなっていたかもしれなかったという過去の中に埋もれているものを現在の中から拾い上げるという過去の救済。

ー

ベンヤミンの「歴史の天使」のもしかしたらこうなっていたかもしれないという過去の救済は、ちょっとだけエルンスト・ブロッホの未意識に近いところがある。未意識は、まだ意識されたことがないが、これから意識されうるものとして、未来からやってくるもの。ベンヤミンの歴史の天使は、現在と過去の関係だけど、ブロッホの未意識は、現在と未来の関係という違いはあるけど。

ー

思想というと大袈裟ではあるけれど、断片的な思想というのが日記では書ける。本とか論文とかは僕には書ける気がしないけれど、アートというよりも、人文的な知というものにも興味があって、そのような自分の思考の記録として日記というものは合っていると思う。

ー

完成した作品より、途中で放置したアイデアの方が面白いこともある。それは、「歴史の天使」でもあり、「未意識」でもある。そういったものにアクセスする手掛かりとして重要なのが記録としてのアーカイヴだ。ここを怠ってはいけないなとすごく思う。

ー

2024年にCream Soda Museumを立ち上げたばかりのときに、案内のポストカードを日本全国(四国と一部九州、沖縄を除く)のアートスペースや美術館に送ったことがある。反応はよくわからなかったけど、例えばPARADISE AIRの森さんとかは見てくれていたみたい。こういう郵送というかたちで制度との接点をキープしていれば、別に展示に繋がらなくとも、家に引きこもっていようとも、美術界と繋がっていられるのではないか。

ー

美術館とかアートスペースで展示する必要性がなくなれば、別に大きな作品を僕がつくる必要性もなくなるのではないか。大きなスペースで展示するときに、そこを埋めれるか、という問題の解決策として大きな作品というのがあるのではないか。いや、もちろん大きな作品でしかできないことはあるのだが。必ずしもみんながみんな大きい作品をつくることを志す必要性はないだろう。

ー

資本主義と縁を全くもって切ることは、日本に住んでいる限り、ほとんど不可能といっても過言ではないが、ズブズブに資本主義に浸かるのは、やはりアーティストとしてよくはないとは思う。効率化、利便性などの裏側には搾取、環境破壊などがある。それをたとえ考えなくても、「アートはビジネスではない」というある種古風な考え方を僕は尊重したい。

ー

資本主義批判については、大学院修了後結構考えてきたが、最近はそうでもなくて、柄谷行人の「力と交換様式」などに出てくる交換様式Dについて知ってから、逆にあまり一生懸命は考えなくなった。というのも、資本主義(交換様式C)を超える力である交換様式Dは、人間が企画して実現できるものではない、と書かれていて、インタビューなどではもはや神の力とまで言っている。そういわれると、ちょっと安心してしまうというか、僕一人で悩む必要性はないんだなと思い、そういうふうになった。

ー

なんだか、展示しなくてもいいってなったら表現ってなんでもいいんだな、という気が楽になった。インスタレーションだけが現代美術じゃないという。確かにインスタレーションは中心的な表現ではあるが、こうして日記だって表現だし、ダンスだって、声だって現代美術の表現になる。

ー

制約と表現の関係性は色んなところで目にしたり聞いたりする。僕にとっても制約が表現形式をかたちづくっているところがあり、特にウェブサイトという形式にたどり着いたのは、統合失調感情障害のなかなか外出するのが難しいときがあるという制約あってのことだ。もっというと、展示自体が難しいというのもある。

ー

Y・Nのボールペンでのドローイングも、せっかく2000枚ぐらいスキャンしたデータがあるのだから、なんらかのかたちで他人が見れるようにしたい。それが、ウェブサイトなのか本なのか、あるいはe-pubとか電子書籍的なかたちがいいのか。まだちょっと決めかねている。けれど、本というのはお金がかかりすぎるから難しいかも。

ー

今日は日記の方を書き過ぎていて、なかなか制作をしたり、アイデアメモを書いたりできていない。まあ、そういう日もあってもいいか。

ー

塩谷雄一郎という名義でこの日記は書いているのだが、ロゴをイラレでさっそくつくった。なぜロゴが必要なのかというと、来月になったらウェブサイトをつくろうと思っているから。8月はサーバーの契約もあるし、いくつかドメインも取得しているから、ちょっと資金的に厳しく、今月はつくらない。

ー

千年ワークショップをやってきて、僕はリアルタイムでの反応というか、言語化などが苦手なんだなと思った。だからファシリテーションしていても、ちょっと自分でもどかしい気持ちにはなっていたというのも積み重なり、今はゲストを呼んで対話するというワークショップはやっていない。

ー

はたしてこれからどんなワークショップをやっていけばいいのか?平岡さんと一緒に考えるというのもいいかもしれない。僕の体調次第だけど、24時間オンラインワークショップというのもやらなくてはいけない。

ー

さきほどは、須賀川にある牡丹園という牡丹の季節に牡丹がたくさん咲き誇る公園に行こうと思って、母に車で連れていってもらったが、珍しく車がたくさん停まっており、人が多いんじゃないかと思いあきらめた。最近の僕の唯一の外での楽しみは、牡丹園の中にある池の錦鯉に餌をやることなのに。

ー

僕にとって、Cream Soda Museumの中に存在している制作物自体も作品と呼べるけれども、どちらかというとそれ以上にCream Soda Museum自体が一つの作品であるという認識をしている。どこからが作品でどこからが作品でないか、というのはそこまで重要な問題ではないのかもしれないが。

ー

日記を始めたので、来月になったらもう一個ウェブサイトつくろうと思っている。8月は何個かドメインの更新があるのでこれ以上はちょっときつい。一体全体何個サイト運営してんねんって感じだけど、一度サーバーを契約すれば、サーバー代は1万円以上するけど、あとは1ドメイン年間2000円程度でサイトつくれるんで、かなり安く運営できる。

ー

音楽がとても好きで毎日聴いているんだけど、音楽って意外と言語化が難しいような気がする。美術の方が手法だったりテーマだったり、言語化する手掛かりがたくさんあるような気がするけど、音楽はそういった手掛かりがないわけではないが、より感覚的というか、抽象的というか。

ー

フランス人は、ChatGPTが英語圏の資料とか情報を中心にインプットされ構成されているから、ChatGPTをやると英語圏に洗脳されるという議論があるらしい。日本人の普通の感覚として、僕にはそのような感覚はなかった。むしろ使えて便利でラッキーぐらいにしか思っていなかった。それは、単純に何も考えていないだけか、それとも日本が直接ではないにしろ、アメリカの植民地的な支配にさらされていて、崇拝とまではいかないまでも、アメリカ的なものへのなんの疑いもない思考にされているのか。

ー

日記といっても、全部が一つのテーマ的なものに貫かれて書かれているわけではなく、Xのポストみたいに、バラバラで思いついたままに書き連ねたものの集合体として、一日の日記がある。この方が圧倒的に僕にとって書きやすいし、量が書ける。

ー

Xのように日記を書いているとさきほどいったけど、そのことが潜在意識的に働いていたのか、千葉雅也の「ツイッター哲学:別のしかたで」が異常に欲しくなり、アマゾンで購入した。明日届くと思う。

ー

千葉雅也といえば、昔「動きすぎてはいけない」を読んだことがある。簡単にいってしまえば、接続過剰になってはいけなく、ある程度の切断が必要というような内容だったような気がする。確かに、千葉さんは何かでツイートの140字という制約を切断的にみていて、その切断が重要なんだといっていた気がする。

ー

千葉さんの言っていることは、とても現代的で、ドゥルーズなどが千のプラトーとかで「接続せよ」などと言っていた頃はインターネットもなかったし、こんなに接続過剰の世界になっていると思っていなかったかもしれない。いざ、接続過剰になると逆に身動きできなくなるし、辛い。だから、適度に切断するんだという。僕もインスタを最近切断し始めている。前まで2600人以上フォローしていたけど、接続過剰だなと思い、嫌になり、今フォローを減らしている。

ー

今日一日で日記を1万字以上書いてしまっている。少し、脳を使いすぎているような気がする。明日にエネルギーをとっておこう。